数百年前 | アイヌ人が鉱泉を発見した |
明治19~24年頃 | 鉱泉が発見されたが、発見した人は不明とされている 当時この一帯は冬期間も氷結せず、鳥獣が多く集まり、とくに傷ついた鹿の姿がよく見られた |
明治22年 | 空知集治監の手により、岩見沢から夕張に通じる道路づくりに着手、翌23年に秋に竣工 |
1903年(明治36年) | 「山鳩の湯亭」として料亭旅館が開業 |
1904年(明治37年) | 自噴する鉱泉をボーリングした結果、湯が玉の如く湧出することから「玉泉館」と改名 |
1913年(大正2年) | 鉱泉の再掘を行ったとされる |
大正?年 | 所有者変更後、裁判沙汰の上明け渡しとなり閉業した。建築物は全部他に移設された |
1933年(昭和8年) | 3ヶ年計画で池の拡張工事を行う。養老之滝の紅葉、兼六公園の菊、櫻、天之橋立、関の松、高千穂、高天原の神木、天満宮の八重紅梅、その他各地の銘木等を植樹され、玉泉園と命名された |
1935年(昭和10年5月) | 玉泉館を新築 |
1936年(昭和11年5月) | 鉱泉主要成分の定性分析を札幌市薬剤師が行う(日本薬学会協定により塩類泉に属す) |
1936年(昭和11年6月) | 岩見沢市内医学博士により再度、定性分析が行われた |
1937年(昭和12年) | 事変勃発後、休業となる |
昭和20年頃 | 終戦後、自然に慰安を求める人々が園に集まり遊びを求めてくる |
昭和22~29年 | 当時の岩見沢市長山本市英氏は、こぶし焼きの額を玉泉館に寄贈され、女湯の浴場に飾られたとされる |
1954年(昭和29年) | ①東山遺跡が見つかり、玉泉園でも竪穴式住居跡が発見された。遺物の土器片や石器類が出土しており、縄文式文化晩期(約2~3,000年前)から擦文文化期(約700~1,000年前)のものと推定され、郷土科学館で保管されている。 ②昭和29年4月10日~11日まで、中部北海道資料研究所が発掘調査を行った。この発掘調査の概況がガリ印刷で「岩見沢市玉泉園周辺遺跡地調査」として出ているが、(中略)633番地からは住居址2ヶ所が発見され、擦文土器が出土している。 |
1955年(昭和30年) | 玉泉館を旅館として開業した |
1956年(昭和31年11月) | 新館・大広間を増築した |
1961年(昭和36年12月) | 本館と大浴場を新築 |
1979年(昭和54年8月) | 株式会社レジャーランド玉千館と名称変更 駐車場の整備、池の掘下げ、樹木移植、別館東家を建築した |
? | 旅館が廃業 |
1983年(昭和58年) | 庭園が閉鎖 |
その後 | 園内が荒れはててしまう |
1997年(平成9~13年) | 荒れた心字池を生かして日本庭園風に手直しを、という市民要望を受け、 岩見沢市が公園の整備を行う |
2001年(平成13年3月) | 茶室「玉泉庵」が完成 |
2004年(平成16年6月) | 岩見沢ロータリークラブより幸太郎石が寄贈された |
2006年(平成18年4月) | 岩見沢市シルバー人材センターが指定管理 |
2011年(平成23年) | 「岩見沢のたから発見・発信プロジェクト」市民がえらんだ岩見沢たから10選に選ばれる |
2018年(平成30年) | 馬淵・庭建共同企業体が指定管理 |
【参考資料】 | 「岩見澤百年史」「岩見澤市を織りなす人びと」「岩見澤郷土誌」「岩見沢繁昌記」「ふるさとの思い出写真集岩見沢」「岩見沢・南空知の100年」「冷水遺跡発掘調査報告書」「郷土かるた」「いわみざわの民話」「岩見澤新聞H13.7.5 H13.10.2」「北海道新聞H18.8.22」 「岩見沢市の先史時代遺跡」「岩見沢市玉泉園周辺遺跡調査報告」 |
いわみざわの民話 - 玉泉園物語 -
いまの中央通りは子どものころ夕張通りと呼ばれていた。この夕張通りについてはこんなことが語られている。その昔ここは鹿道(しかみち)といって、鹿の通る細々とした道であった。その鹿道をどこまでも歩いてゆくと、着いたところが夕張だったという。それで夕張通りという名がでてきたわけである。いまはマチの中の中央通りとして栄え、そのはずれからの山道はまだいくらか夕張通りの面影をとどめているといえるだろうか。
その入り口のあたりに玉泉園がある。昔はこのあたりの山間にかけて、キジやハトや鹿がいた。みんな平和な暮らしをしていたようだ。いつかアイヌが住みつくようになり、狩猟好きなアイヌのえじきになることが多かった。そのためにうたれて傷つく動物が多く、神さまはこのことを悲しまれ、それらをいやしてくれるわき水を与えてくれた。このわき水が鉱泉で、これをわかして静養の場所としているのが、いまの玉泉園である。
ところで、ある日のことであった。よたよたと傷ついた一匹の鹿が、この水のあたりにやってきて、二三日ばかりはほとんどここで過ごしていた。鹿は傷ついたからだを水にひたして、みずからをじっくりといやしているのだった。ひとりの若いアイヌが、この鹿の後をつけてたけ高いささむらからすっかりそのようすをのぞいてしまった。
数日もすると、この鹿はもうまったく元気になったらしく、いきおいよく立ち上がって、ささむらをかきわけるようにして去ってしまった。そして再びそこには姿を見せることはしなかった。若いアイヌは、このことを大人たちに話して歩いた。アイヌたちはその不思議な水をたずねてそれがただの水でないことを知った。アイヌたちは、傷ついたとき、疲れたとき、ひそかにその水がどんなに役立つかを試してみた。
神さまの恵みは与えられた。アイヌに新しい知恵が生まれた。恩恵を受けることだ。これをのがすことはできない。そう思った。ところが、このことは、ここを通る旅人の目にもとまった。不思議な水はすぐひとびとのこころをひいた。経験ゆたかな旅人は、それがどんな水か、それがどんなことに役立つかを直感した。こうしてわき水はしだいにささやきを大きくしていった。やがて旅人によってわかされるようになった。つまり温泉として使われるようになったのである。
不思議なわき水は温泉にかわった。わかすことによっていっそうの効用を高めた。キジやハトや鹿の神さまの水は、人間によってたくみに利用されることにより、そこには誰がこしらえたか、旅人のためのかりの宿泊小屋もでき、ゆっくりとその旅情を慰めることも可能になったのである。
それからまた年月が流れた。時は惜しみなく人間の世界を、そしてその感境を変えていった。玉泉園はそうした現在の顔である。いまはいわみざわの静養地として、またいこい、健康なレジャーの場所として、多くのひとから愛され、親しまれている。
岩見澤を知る者にして玉泉館を知らざるなく玉泉館を知る人にして岩見沢を知らざるはなし、蓋し同館は岩見澤に於ける唯一の温泉にして風光妙なると設備の良好とを以て知らる佐村氏經營してより年毎に遊客の春顧を來し、温泉は鑛泉にして外傷、梅毒、皮膚病、子宮病等に特効あり、殊に庭園の池沼は凊水溢れ舟遊に魚釣に一日の鬱を散するに足るべく、位置は岩見澤市街を去る約十餘町、競馬澤鳩ヶ岡にありて四季眺望に富み、光も病者の静臥に適するのみならず壮者又一日の清遊を為すに好適の温泉館たり。
(岩見澤繁昌記より一部抜粋)
岩見沢の南東3キロに冷泉が湧いており、それを使って明治時代に開業した温泉旅館「玉泉館」とその庭園は、昭和50年代まで多くの市民に利用され親しまれてきた。また、ここは古くから桜の名所としても知られ、秋には紅葉も楽しめた。現在は、庭園内に散策路や東屋、茶室も設けられ、市民に開放されている。
(岩見沢・南空知の100年より一部抜粋)
古くから市氏より親しまれている玉泉館についてその由來を述べてみましよう。
玉泉館は林泉の美を誇る玉泉園の中にある建物で、この中に自噴する鑛泉があるので昔より有名であります。 さて玉泉館内に自噴する鑛泉に上家を建てて水槽にこれを湛え、自家用の抑揚として使用されておりますがこの鑛泉はガスを含有して地上一米三十もの自噴を見せて居ります。
この主成分を昭和十一年六月、市内の西村医学博士の定性分析が行われ、次のような主成分があることを判明しています。
一、クロース(少量) 一、硫酸(微量) 一、珪酸(少量) 一、岩塩(微量) 一、鉄分(微量) 一、アルミニューム(少量) 一、カルシューム(多量) 一、カリウム(少量) 一、マグネシューム(微量) 一、ナトリウム(多量)
さて、この鑛泉を発見した人は不明でありますが、明治十九年より二十四年頃の間に発見された事は確かで、当時の文献がこれを傳えております。
この當時の玉泉園付近一帯は冬期間も氷結せず、鳥獣が多く集り、とくに傷ついた鹿の姿がよく見られるという事であります。
(岩見澤郷土誌より一部抜粋)
〒068-0820
北海道岩見沢市東山3丁目3-1
開園期間 4月29日~11月3日
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馬淵・庭建共同企業体
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